moncraのブログ

言ったこと、したこと、思ったこと。

談話研究?

今となってはどうでもいいのだが、気になることはいくらでもある。

 

「最近のウルトラマンはよくしゃべる」

 

こんな意見をたまに目にする。

たしかに最近のウルトラマンはよくしゃべる。

しかし、昔のウルトラマンだってしゃべらないわけではない。

ここではかつてのウルトラマン(初代)に登場する言語の使用法について

だらだらと考えてみたい。

 

私の覚えている限り、初代ウルトラマン

シュワッチとはあまり言わない。

いや、表記上は「シュワッチ」が適切かもしれないが、

彼の発音を正確にカタカナ表記するならば

テューワットゥになるのではないか。

 

また、後述されるバルタン星人の笑い声(?)ついては

どのメディアでも「フォッフォッフォ」という表記が見られるが、

音声として聞いた通りに表記するならば「ブッヘッホッハッホッハッヒィエッヒィェ」となる。(脳内再生していただくとわかるだろう)

 

それは、ワットタイムイズイットナウがワッタイムイズイッナゥとなったり

アンドユーがアンジューになるように英語をカタカナ表記するときに生じる

現象に近いものがあるだろう。

 

しかし、彼の発する単語はシュワッチが代表ではあるが、

戦闘においてはまた独特な声を出す。

まぁ、空手や剣道によくあるステレオタイプの掛け声だと認識しているのだが、

実は彼はヘアッ とか アワッ という声よりも先に

エコーエフェクト満載で

エムエムエムななじゅうはちはちはち星雲の宇宙人じん

(M78星雲の宇宙人だ)

と日本語を喋っている。

(その後のハヤタ隊員のセリフのイントネーションがおかしいのはここでは触れないようにしておく)

 

最終回でもゾフィーウルトラマンはお互いに話をしているシーンがあるが、

「ハヤタはまだ若い」とか「命を二つ持ってきた」とか喋っており、

第1話の時点で「日本語をしゃべる宇宙人」の存在が確認できる。

 

日本語を話す宇宙人はウルトラマンだけではない。

第28話に登場するダダはウルトラマンに苦戦し、アジトに戻ると

日本語で「ダメだ・・・ウルトラマンは強い」と上司(?)に報告している。

 

第33話に登場するメフィラス星人は子供に「地球をあげます」と言わせようとしたり、

「宇宙人同士が戦ってもしょうがない。私が欲しいのは地球の心だったのだ。

だが、私は負けた。子供にさえ負けてしまった。(後略)」と、日本語でウルトラマンとコミュニケーションをしている。(さすがIQ10000のメフィラス星人。ちなみにウルトラマンタロウに登場する二代目メフィラス星人はダジャレも言えるようになっている)

 

 

 

これらに対して、

「そりゃ子供向け番組なんだし、作り物なんだから宇宙人だって

日本語でしゃべるだろ」という指摘はよくない。

 

なぜなら、第2話に登場したバルタン星人は日本語をしゃべらない。

キエテ・コシ・キレキレテ

と、宇宙語(たぶん宇宙の共通語のようなもの?)で喋りかけた

イデ隊員に対して、その宇宙語の意味がわからなかったバルタン星人は

アラシ隊員の脳髄を借りる(今で言う意識のハッキングか?)ことによって

アラシ隊員を操り、たどたどしくはあるが

「キミノ ウチュウゴ ハ ワカリニクイ(君の宇宙語は分かりにくい)」

と、日本語でのコミュニケーションを試みている。(その後、第16話でイデ隊員は宇宙語翻訳機を開発。124875回路に接続することにより使用可能となった)

 

私の記憶の中でイデ隊員と同様の行動を見せるのが

第18話登場のザラブ星人である。

 

人間の科学力ではとてつもなく大きなコンピュータが必要な

宇宙語翻訳機なのだが、ザラブ星人にとってはラジカセ程度の

大きさの翻訳機を持ち歩くことでそれを達成している。

 

つまり、宇宙人たちには独自の母国語があり、

1.地球侵略において侵略先の言語を習得するタイプ

2.圧倒的科学力によって宇宙の全言語を翻訳する機械を開発するタイプ

3.自身の能力によってなんとかするタイプ

などに分類されていくのだろう。

 

だとすれば、1に属するであろうダダ、メフィラス(ウルトラマンもここか)といった宇宙人たちは同種族同士でも日本語で話していることになる。(メフィラスの場合はメフィラスとウルトラマンの会話になるが)

 

差別意識などは毛頭ない。と付け加えておかなければならないと思うが、

たとえば日本に来た留学生同士がお互いの母国語ではもちろん会話などできず、

英語で会話するとなかなかうまくいかず、

日本語で話している場面に近いのだろうか。

 

 

 

内柔外剛(2)

どうでもいいことではないが、どうでもいいことにしてしまいたい。

私は「就職したくない」という考えだけで大学院へと進学した。

 

たいした卒論を書いたわけでもない。

ただ、自己満足のためだけに仕上げたようなものであり、

内容なんて何もなかった。

 

でも、いつしか自己満足は自己欺瞞になっていった。

自己欺瞞は過剰な自己評価になり、

気がつけば、私は研究者を目指すにふさわしい人間になっていた。

 

今になって思えば、私は李徴だった。

 

「俺は詩によって名を成そうと思いながら、進んで師に就いたり、

求めて詩友と交わって切磋琢磨に努めたりすることをしなかった。

かといって、また、俺は俗物の間に伍することも潔しとしなかった。

ともに、我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心とのせいである。

己の珠にあらざることを惧れるがゆえに、あえて刻苦して

磨こうともせず、また、己の珠なるべきを半ば信ずるがゆえに、

碌々として瓦に伍することもできなかった。」(中島敦山月記』より)

 

これほどまでに私を表す言葉はあっただろうか。

しかし、当時の私は、自分のことをこのように表現することはできなかった。

 

大学院に進学してもたいした発表はせず(できず)

研究会に所属するわけでもなく

ただただ毎日を過ごしていた。

ただただ修士課程の二年間を浪費した。

 

たいした才能も成果もないのに

「俺は教授になるのだ」などと豪語する俺をみた奴らは

さぞかし滑稽だったろう。(つづく)

内柔外剛(1)

どうでもよくないとは思うが、どうでもいいことにしてしまいたい。

 

大学3年次あたりからはじまるであろう就職活動をするのがとてつもなく嫌だった。

合同企業説明会のような所に行くのも嫌だったし、いわゆる「一般企業」と呼ばれるようなところに就職したくはなかった。

自分はそんな社会の枠組みの中に居たくはなかった。

企業説明会にこぞって参加している学生を蔑み、批判し、馬鹿にしていた。

周りがやってるからとその流れの中に自らを置き、

社会の枠の中に行儀よくおさまろうとしている奴らを批判していた。

お前らは大学にまで来て、そんなことがやりたいのか。という具合に

蔑み、批判し、馬鹿にしていた。

 

でも真実は違う。

自分には夢なんかなかった。

「就職」というイベントから逃げたかった。

他者を批判することによって、自らの居場所を確立させたかっただけなのだろう。

ただの強がりだった。

でも、ただの強がりということを周りに認識されたくはなかった。

 

思い起こせば何かがやりたくて大学に進学したわけでもない。

大学附属の一貫校に通っていただけであり、

附属の大学に進学するのが当たり前なだけだった。

何かが学びたかったからその学部を選んだわけでもない。

いつものように「なるようになる」という精神性なだけだった。

 

そんな夢も目標も持たない私が「せっかく大学に来たのだから何か資格を」という感覚で履修していたのが教員免許だった。

 

小さい頃から教員になりたかったわけではない。

世話になった先生はいるが、そんなものは誰にでもいるもので、

「あの先生のようになりたい」なんて思ったことなどはなかった。

 

ただぼんやりとしたものだった。

そんな低い志だったとしても、続けていればやりがいは出てくる。

だから、血反吐を吐く思いで教育実習もこなした。

でも、大学卒業をしてすぐに教員をするつもりはなかった。

採用試験も受けていない。

 

「就職なんてしたくない」「企業で働きたくない」「すぐに教員も・・・」

そんな私が選択したのは大学院への進学だった。

修士課程に進学したら、少なくともあと二年は将来について考える時間が取れる。かつ、教員免許もグレードアップさせることができる。

 

いつものように「なるようになる」という精神性なだけだった。(つづく)

姉のおさがり

今ではどうでもいい。

私には5歳年上の姉がいる。

 

夏になると庭にビニールプールを出して水遊びをする。

私が小さい頃の夏の一場面だ。

たしか近所に住んでいた、私より年下のメメ子ちゃんもいたと思う。

 

私が小学生にあがるころ、体育で使用する水着を買いに、

母と二人で行ったときのことだ。

 

「これにする」

 

と、私が水着を母のところへ持って行くと

 

「それ女の子用やで」

 

と、笑われた。

 

でも、私にとって水着とはそのタイプしか知らなかったのだ。

 

世の中には、トイレ以外にも「男の子用」と「女の子用」があることを知った。

バトン

今となってはもうどうでもいいことだと思うのだが、こんなことがあった。

 

私は循環器に疾患を抱えており、走ることができない。

正確に言えば、走ることはできるが持久力がない。

また、脈拍をあげることができない。

だから小さな時から走ることをほとんどしたことがない。

走るのはとても遅かった。

 

 

6年生。最後の運動会。

クラス全員が出場するクラスリレーに出たかった。

一人一周のバトンリレーで、私は半周だけになった。

クラスで話し合ってそう決めた。

 

私は半周走って、次のイヨン君にバトンを渡す。

そういう約束だった。

 

当日、オデコちゃんからバトンをもらった。

必死で走った。

たった半周だけなのにうしろからどんどん追い上げられて

追い抜かれそうになった。

それくらいのタイミングでイヨン君にバトンが渡った。

イヨン君は走るのがとても速かった。

みるみるうちにスピードを上げて、後ろの人との差を広げ、

一周半走った。

 

自分のクラスが何位だったかなんて覚えていない。

最後にみんなと走れて幸せだった。

 

リレーが終わった時、私を抜かそうとしていた子に

「君の代わりに走った人、すごく速かったね」と言われた。

嫌味だったんだろう。逆の立場だったら腹が立つのは理解できる。

勝てたレースで負けたから。

それでも私は最後にみんなと走れて幸せだった。

 

その日の連絡帳に「走れてよかった。クラスが勝ててよかった」と書いた。

次の日、担任から赤ペンで「あれでよかったのかなぁ。」とコメントがついていた。

 

そのときからだろうか。

私が走ればみんなが嫌な気持ちになると分かり始めたのは。

 

 

 

 

 

足跡

今となってはもうどうでもいいことなのだが、こんなことがあった。

 

社会の時間だったろうか、歴史を調べて一人一枚新聞風の記事を作るという授業があった。その時間はみんな一生懸命作っていた。

次の時間は体育だった。

わたしは体が弱かったため、体育は見学の毎日だった。

体育の見学といえば、当然皆と同じ様に着替えてグラウンドで見学というのがお約束だと思うのだが、わたしの場合、着替えずに教室で待機だった。

もちろん監督の教員もいない。

今から考えるととんでもないことだとは思うが、当時はそれが普通だった。

 

いつものようにわたしは教室で待機。

まださっきの時間の新聞記事が完成していなかったから、その作業をすすめていた。

 

 

体育の次は給食があって、昼休み。

 

その昼休みの終わり頃だったろうか、クラスメイトのヒラヒラくんとハトポッポくんがわたしのところにやってきて、なにやらどなりはじめた。

 

どうも、彼らが作った新聞に靴跡がついており、その犯人がわたしだというのだ。

 

「体育の授業中に俺たちのを踏んだにちがいない」という。

 

わたしは彼らの家に遊びに行ったりする仲ではあったが、

彼らはわたしをいじめたりもした。

たしかに彼らに対する日頃の恨みはあったが、わたしは影で隠れて復讐をするような性格ではない。

 

いくら「やってない」と言ったところで、わたしの主張は彼らに受け入れられることはなかった。

 

ヒラヒラくんが「ここに上履きの跡があるだろ」と私に詰め寄ってきたとき、

ふとしたことに気がついた。

わたしの履いている上履きの靴底模様とは明らかに異なる跡がついていた。

 

それを確認したヒラヒラくんは「そうか、もんきちではないのか」と引き下がっていった。

 

一方でハトポッポくんの新聞にはわたしの上履きの靴底模様とよく似た跡がついていた。

断じてわたしではない。

 

大きな声でわたしは彼からなじられた。

彼の新聞を踏んだ奴がこの教室の中にいるのに、わたしは犯人にされた。

わたしは最後まで認めなかったが、彼の中でわたしは犯人になった。

 

 

片付けられてしまう喪失感

今となってはもうどうでもいいことなのだが、こんなことがあった。

 

子供の頃、自室こそあったものの掃除や片付けというものと無縁であった。

とはいえ、もともと物が少ない部屋だったので、足の踏み場もないほど散らかっているということはなく、目につくのは机の上のいくつかの本、ベッド周辺のゲーム機程度である。

だから「掃除は自分でするから」と親に何度も言ってきたのだが、私が学校へ行っている間に部屋の掃除がされていることが多かった。

むしろそれはありがたいことのうちにいれておくべきことだろうと思う。

しかし、掃除だけではなく片付けまでされてしまうのです。

次の日に使う予定だった道具がどこかに消えている。明日もやる予定だったゲームがラックの中に入っている。なんてことは日常茶飯事だった。

 

だから「片付けは自分でするから」と親に何度も言ってきたのだが、私が学校へ行っている間に部屋の片付けがされていることが多かった。

 

ある日、美術の課題を机の上に置きっぱなしにしていた。置きっぱなしにしているには訳がある。絵の具を乾かさなければならないからである。

 

私が学校から帰ってくると、置いていたはずの課題がなくなっている。

カバンの中も、机の中も、探したけれど見つからない。

向かいのホーム、路地裏の窓、こんなところにあるはずもないのに。

明日提出の課題が部屋から消えている。

 

「なぁ、机の上のやつどこやったん?」

私が母に聞く。

「あぁ、ゴミが多かったから片付けといたよ。」

母が私に言う。

「机の上のやつは?」

私が母に聞く。

「知らんで。ゴミは捨てといた。」

母が私に言う。

「もういいわ。本当にもう片付けんといて。」

私が母に言う。

「なによ。せっかく片付けてあげてんのにありがとうも言えへんの?」

母が私に言う。

 

・・・きっとゴミと一緒に捨てられてしまったんだろう。

美術の課題の絵。

たしかに私には絵心はない。でもちゃんとした紙に描いて机の上に置いていたのだ。ゴミ箱に入れていたならまだしも。

 

次の日、美術の課題提出はできなかった。